本記事はわがマー家の近代史と現代史に分かれる。

1.  近代史:口述:父の日本史

2.  現代史:昭和の歌謡曲で綴る私の日本時代

 

1.  近代史:口述:父の日本史

アヘン.jpg

アヘン使用中のイメージ図

物語は、まだよちよち歩きの出来ない幼児だった父が、アヘンを吸っている爺さん(私の曾爺さんにあたる)の傍まで這い這いしたところから始まる。

当時、アヘン(鴉片)は台湾上流社会の人間にしか手の届かないぜいたく品であり、父の家庭は台湾南部の上流家庭であったことをうかがわせた

当時は既に日本植民地時代に入ったものと思われる。

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曾爺さんは台南のある村の村長を務めていた。

当時、台湾人の間で最も怖れられる日本官僚と言えば日本人警察である。気に食わない台湾民衆を見かけては警棒で勝手に殴っても何の罪にも問われなかった。

台湾人ママは子供のお仕置きによくこう言う。「大人しくしないと警察が来るわよ!」ズバリ日本人警察のことである。

その暴れ放題だった警察もやがて大人しくなる。

植民地政策の修正で台湾人にもある程度の権限が与えられることになり、警察の給料は村長が大日本帝国政府から預かり、警察の仕事を見て支払うシステムとなった。

すると、それまで大威張ってた警察も給料日やボーナスの日になると大きな日本酒を担いで曾爺さんの家まで赴き、ヘラヘラしながら村長である曾爺さんの機嫌を取る光景に変わった。

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父は父姉と二人で実家から遠い明治小学校(現在 成功国民小学)へ機関車で通学した。

そこは日本人と一緒に勉強する小学校であり、教師の質は高くて厳しいとの評判だった。

遅刻した者は誰であろうと、どこから通学しょうと校庭のグラウンドに立たされる。

二人は一回だけ遅刻してしまい、他の子と同じように立たされた。

それ以降遅刻することは無かった。

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台湾小学校のイメージ図

植民地政策により台湾人小学生たちの日本人名が奨励されていた。父が自ら選んだ日本人名は牧 賢造(まき けんぞう)。文学志向、政治向きの名前であろう。

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父の兄は実業家になる夢を抱き中国に旅立った。

当時中国は日中戦争(八年抗戦)の真っ只中にあったが、それは最前線だけで後方は比較的平和だった。父兄は友人と一緒に船で中国の福建省までたどり着き、空き地を見つけて町工場を開業した。当時の中国はインフラが整えておらず、しかも戦争のため電気の無い町が多かった。そこに目を付けた父兄はロウソクの生産に取りかかる。これが大当たりして父兄の工場は拡大に継ぐ拡大、日も夜も無い24時間生産体制までになった

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戦争の成行きが怪しくなるにつれて父達の生活も次第に苦しくなってきた。それまで辛うじてお米が食べれた日々もサツマイモのお粥にとって代われた。

学校に貼られた「少年飛行兵募集」のポスターに惹かれて父は応募した。兵学校に入るとご飯がいっぱい食べられるからだ。

少年飛行兵.jpg

しかし試験で父は不合格になる。理由は詳し聞くことができなかったが、おそらく身長の問題ではないかと思う。ここは男のプライドであるがゆえに深くツッコまない方が良さそうだ。

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戦争の後期になると米軍による台湾大空襲が始まる。連日の爆撃が去った後の風景は無残を極めた。

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台湾大空襲の作戦図

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ある日、小学校で授業していた父たちは皆校庭に集められ、スピーカーから何やら人の喋り声が大きく流される。

それは父が生まれて初めて聴く天皇陛下の玉音放送だった。

小学生だった父たちはみんな座礼して聴き、多くの人は泣きながら聴いた。父も泣いた。

玉音放送.jpg

太平洋戦争は終わった。

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しかし台湾の日本史はまだ終わらない。

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日本が負けたと知って多くの台湾人はモップと化する。監獄に閉じ込められていた受刑人は解き放され、愚連隊と化した彼らは日本人を探し、見つけては殺傷を繰り返し始め

台湾の街並みは極度の恐怖に陥った。

統制の効かなくなった日本人警察はどこかに消え、日本人の命は風前の灯火となる。

住み慣れた家から離れ、日本人の多くは知り合いの台湾人の家に隠れた。

日本人をかくまった台湾人も同じ目に遭う。

愚連隊は村長である曽爺さんの家にも駆けつけ、日本人を渡すよう村長に迫った。

愚連隊:「日本人をかくまってないか?」

村長:「かくまってない」

愚連隊:「じゃあ家の中を見せろ」

村長:「失礼だぞ」

村長は日ごろ台湾人の面倒見の良さで村では評判だった。日本人警察が猛威を振るっていた時代でも台湾人の立場に立って数々の交渉を勝ち取ってきた。それを耳にした愚連隊はやがて去って行った。

だが、曽爺さんは、実は日本人をかくまっていた。二十人近くの三家庭と家族とはぐれた日本人の大人や子供たちである。

曽爺さんは最寄りの港に日本に発つ船の便を突き止め、かくまってた日本人達をその日が来るまで息をひそめて待たせた。

そしてその日の前日深夜、曽爺さんと日本人たちは夜の暗闇に紛れて港までたどり着き、無事みんなを船に乗せた。

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一方、

中国福建省で工場を経営していた父兄は終戦の知らせを聞いて雀喜んだ。

街は戦争勝利のパレードに続くパレード。父兄たちもそれに加わった。自分たちは周りから日本人だと思われているのも知らずに。

パレードがひと沈着してからある噂を耳にする。

「日系企業が中華民国政府に没収されてるらしい」

消息は不透明だった。いろんなうわさが飛び交い、父兄と一緒に台湾から来た商人の多くは混乱に陥った。

今ここで逃げると多大な損害となる。しかしここに居て安全か?誰にも分からない。

中華民国政府の取り締まりは日に日に彼らの近くまで迫り、ついに隣りの街にまでその手は伸びて来た。

「大丈夫。我々は中国人だ。中国語でそう主張すれば分かってもらえる」

しかし議論の余地のない中華民国政府の徹底した没収のやり口を観て父兄は自問自答する。

「私は中国人か?台湾人か?日本人か?」

その答えを明かす日がついに来た。

中華民国政府の役人が遂に工場までやって来て調査をし始めた。

 

父兄は説得に全力を尽くした。

 

そして、

 

 

判定が下された。

 

 

 

 

工場没収。

 

 

 

資産没収。

 

 

 

銀行預金没収。

 

 

 

父兄たちは、実業家になる夢を託して手ぶらで中国に来た時と同様、手ぶらで船に載せられ、台湾に返された。

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終戦後、中華民国という聞きなれない国が台湾を接収した。

日本軍を打ち破った勝利国の軍隊を一目見ようと港に駆け付けた父ら一行が見た風景は勇ましさのかけらもない、負け戦の兵隊のようなみすぼらしい群衆たちだった。

中華民国の統制は日本植民地時代よりも横暴で理不尽極まりなく、人々の忍耐は限界まで達する。

そして2.28事件が起きる

怒りに燃えた群衆は町中で中国人を目標に殺傷を始める。相手が中国人か台湾人か見極めるポイントは日本語。日本語が出来るなら台湾人、出来ないなら中国人というわけだ。

つづく

 

2.  現代史:昭和の歌謡曲で綴る私の日本時代

私の日本時代の想い出はとても貴重でしかも郷愁溢れるものであり、私の永遠の収蔵である。

その一番想い出に残る幾つか出来事だけを拾い綴ってみた。

 

日本に触れる前、韓国駐在期

私が二歳だった頃、父に海外転勤命令が下される。ここから、私の16年に及ぶ海外駐在生活が始まる。

最初の駐在先は韓国だった。

 

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(韓国滞在期。漢城(ソウル)中華民国大使館にて。左端の男の子が私。)

 

(韓国人のメイドさんと撮影。)

 

当時の韓国はまだ朝鮮戦争の悲しい記憶が生々しく、国民に一種の悲壮感が漂ってて、貧乏、哀しみ、後悔、恨み、儒教倫理も相まって、息が詰まるほどの高圧力社会だった。

사랑하고 싶어/想愛 - wax/왁스

(当時の曲ではないが、その頃の韓国はこの曲のように悲壮感を強く文化に表現していた)

 

その韓国に6年住み、今度の駐在先は日本という、聞いた話ではウサギ小屋に住み、トイレのない、厳罰の国と聞き、仰天した。

そんなところにはとても生きていけない。。。

 

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(韓国滞在期に一度二度日本に来たことがある。大阪万博)

 

日本駐在期の想い出

東京、小3から小5

たどり着いた日本は確かに私にとって今までにない異世界そのものだった。

(アパッチ あまったれ)

 

それはともかく(笑)、

新学期を控えた空白の数か月、私は「ウルトラマンエース」だけを観て、何と日本語をマスターしてしまう。

 

 

学校の先生からも自分でもびっくりするぐらい日本語の上達は速かった。

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(矢印が私)

 

実は、その頃から自分は日本女性に興味を抱いていたこをここで白状しておかなければならない。それを意識し始めたのは恐らく小5あたりからではないかと思う。もちろん少年の思い描いていた性は詩的、かつ幼児的で、お母さんのおっぱいをねだる心理に近かった。

(ピンクレディーの様な隣家のお姉さんが愛しかった。)

 

 

雨の中の出来事

ある時、弟と雨の日に東京の道を歩いていた。友達の家に行った帰りだったと思う。雨はだんだんと大きくなり、弟と私二人はずぶ濡れに近い格好で帰途についていた。すると、ある大人の日本人女性に声掛けられる。

「僕達、これで早く帰りなさいね!」

お金を渡されたのか、雨具か何かを渡されたのか今となって定かではない。しかし彼女から渡されたモノは私たち兄弟にとって渡りに船であった。私がお礼を言う間もなくその大人の女性は微笑んで去って行った。

日本人女性は優しくて、思いやりがあって、とても頼もしく思った。

   

 紙ふうせん・・冬が来る前に

 

日本の食卓

10年日本に居て、「日本家庭料理」は実は数度しか食べたことがない。
たまに家族ぐるみで日本人家庭訪問。それで一緒に食事となると、日本人ママ(日本に居るから普通のママ)が準備してくれる食事は写真の様な構成。小さな茶碗や皿が多く、小さくまとまってて可愛い。

(日本家庭食イメージ)

それに対し私の日頃の食事は中華食。大きな皿におかずがどっさり乗っかる、あの典型的な中華式です。

(わがマー家の中華式夕食イメージ)

 

反抗期真っ只中だった私は常に敵対してる父と(笑)一緒のおかずを取らねばならず、また、おかずを多く残すと今度は母に怒られる。


その点、日本人家庭の食事は自分の分がきっちり区分けされ、量も少なめ。これなら私も食べ切れるし、何と言っても自分のテリトリーがあり、尊重されてることに新鮮さがあった。


「いっぱい召し上がってくださいね!」

 

日本人ママの上品な言葉遣いが心地良かった。日本語敬語が、こんなに美しく感じたことはない。大人が子供に敬語で話すのは日本だけの贅沢だと思う。
小さな可愛い茶碗がいっぱいあって、日本人の話しを聴きながらの食事は、少年だった私にとって、ディズニーランド以上の新鮮さがあった。

当時の日本は大人が子供に尽くす時代だった様に感じられ、日本の大人は面白い、と感心した。

 

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大阪 中学少年時代

趣味との出会い

東京から大阪に移ってから私は大阪中華学校に入学する。入って早々先輩に校舎屋上に呼び出される。

。。。早くもリンチか。。。」

恐る恐る屋上について行ってみるとそこには何人か先輩が日向ぼっこしながら色んな本をめくり、おしゃべりしていた。

リンチではなかった。。。ホッ。。。

その時私はある一冊の飛行機本を見て、雷に打たれたような感銘を受ける。

「美しい。。。しなやかだ。。。」

飛行機に恋した瞬間である。それまで飛行機なんてみんな同じだと思ってた。私が恋したその飛行機の名は今でも覚えている。それはこれ。

 

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当時中学生の流行はABBAの曲を聴くことだった。それはいろんな外国知識、専門知識とウンチクを貪る年代。

 

(Abba - The Winner Takes It All   )

 

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(ミリタリーも趣味)

趣味本を読みふけながら腹が減ると吉野家で牛丼頬張りながら人目など気にせず本を読み続けた。

 

 

日本の大人

日本人女性に関心が高まったのは中学に入ってからである。その頃の私は女性の構造どころか、男性である自分の構造もはっきり分からず、マスターベーションも知らない初心少年だった。また、当時の私は横断歩道を一人で渡れないぐらいの臆病者で、知らない人とは「はい!」しか言えず、逃げてばかりいた。すでにペラペラの日本語を生の日本人に語りかけたくてうずうずしていたが、外の世界に身を置いても言い出せる言葉は決まって「はい、お願いします、ありがとうございました」の買い物対談だけで、そのフラストレーションのはけ口が見つからず苦悩していた。また、中学まで華僑学校だった故、さらに外の世界に解放を求めていた

しかし、自由を求める私に一人だけの外出は両親に強く制限されていた。家族との外出で私は日本人から更に遠のいていく。

家族との外出で一番想い出に残っているのは、ある雨の日の神社参り。

その帰りにあるカップルが私達の前を歩いていた。寒い日に雨。二人の後姿が私の胸に強く焼き付く。

大人はカッコいい、大人は凛々しい、と思った。

 

(雅夢 愛はかげろう)

 

 

 

(クリスタルキング 大都会)

 

 

(オフコース さよなら)

こういう大人になって、

日本の大人の女性と一緒に歩きたい。。。

 

私は日本の大人にあこがれていたと思う。

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家族外出の夕食は決まって大阪梅田台湾人の経営する中華料理屋さん(笑)。

(中華料理屋さんイメージ図)

 

そこにはテレビが置かれてて、画面から流れて来る番組は決まって歌謡番組。印象に残っている曲は確か山口百恵の秋桜(コスモス)と、「いい日旅立ち」。良い歌声だった。だが、たとえ彼女の歌がどんなに良くても、私にとって、日本人は、身近に居ながら、とても遠い存在だった。だから私に心から曲を愉しむ余裕や想像力など当時には無く、ただ、曲を聞き流しながら、両親の監視の元で大人しくご飯をほおばるしかなかった。

秋桜(コスモス) 山口百恵

 

いい日旅立ち 山口百恵

山口百恵は私のお姉さんとお母さんの間の存在

 

 

上品な日本女性

当時の私にとって、日本人女性はオトナの象徴であった。精錬されてて、上品で、落ち着きがあり、私の知らないことをいっぱい知ってるって感じ。

そんな自分が、

電車の中で、スーパーで、街で、年上のママ風、OL風の日本人女性をさり気なく盗み見しては彼女達に何かを伝えたかった。

 

「お姉さん、おはよー」

「今日の貴女はとっても綺麗。」

「疲れてるみたいだね、お疲れ様~」

「きっと大丈夫だよ。」

「こんな俺だけど。。。」

 

あの頃から日本女性はカッコいい、凛々しいと思った。それは一種の落ち着き払ったオトナの態度、全体的に漂う大人の雰囲気。

上品で、知的で、勤勉。

 

 

 

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高校受験を前にして、父から東京の中華学校()に入ることを勧められる。将来台湾への進学に有利だそうだ。

だが、日本人学生のいない東京中華学校では気が引ける。何にも耐え難い青臭い小学生と一緒に過ごすことだったそこは小校)。

当時の私は「青春だー!」という呪文に囚われていて、「青春」ドラマにハマり切っていた私にとって青臭いガキ共との登校は屈辱以外の何ものでもなかった

(「青春もの」ドラマ 夕陽丘の総理大臣

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太陽がくれた季節 青い三角定規 (1972-9)  

(青春もの代表格)

 

(俺たちの旅 中村雅俊)

 

 

お父さん、自分は、テレビに出て来るような日本人の行く学校に行きたいです。」

 

私は勇気を出して自分の希望を言った。父それ以上何も言わず、私の意見を尊重した。

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ある時、

母は病気で大阪の住友病院に入院する。私が看病している傍ら、病室の窓から外を眺めると日本の学校があり、校庭で学生がテニスしてるなど、日本のごくありふれた、のどかな風景がそこにあった。

 

こんな普通の日本の学校で、普通の日本の学生になって高校生活を過ごしてみたい。。。

 

真実は小説より奇なり。

私の日頃の行いが良かったのか、神様は私の願いを聞き入れてくれたらしく、星の数だけある大阪の高校から、

なんと私は、そのまま、病院の病室の窓から見たその学校に入学することになったのだ。

 

The Nolans - I'm In the Mood for Dancing  

(当時看病してた病院一階のロビーに大きなテレビが置かれてあって、観てた番組にノーランズの曲があった。)

 

 

大阪 高校時代

そこはテレビと良く似た世界。

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しかし実際体験してみないと分からない斬新な世界がそこにあった。

私は自分を日本に溶け込むようにしてハイスクールライフを心から満喫する。

 

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しばらくして私は特別な経験をする。

同学年の日本人女子生徒 A子と知り合う。

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あの頃の日本は(今と違って)中国ブームの真っ只中。中国のモノなら何でも売れた時代。

 

YMO 人民服ファッション)

 

同学年に中国人がいるみたい。。。(実は台湾

 

実は中国人ではなく台湾人なのだが、その噂に引き寄せられようにA子は私に交際を申してきた。

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その頃我が家では次の滞在国の話で盛り上がり(父のインドネシア転勤)、それを匂わせる気配が感じられていた。

韓国、日本の次はインドネシアか。。。

 

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なんか悪くない話。

ならば

 

日本滞在の締めくくりとして日本納めを...

 

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それは、

いろんな斬新すぎるぐらいの経験だった。

喜怒哀楽。

私の人生での最初のカノジョが日本人女性。。。

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折しもその時、父のインドネシア転勤命令が現実に。。。

転勤となれば、私たち家族も一緒に日本を去らなければならない。

当時高2だった私は、それまで父の転勤に賛成だったのを、今度は自分だけ日本に残りたいと父に懇願し始める。

だが、もとから父とウマが合わないことが祟り事態はエスカレート、これが父と私の最初にして最大の内戦となる。

親日だった父はこれを機に、日本と距離を置くようになる。家族団らんインドネシア旅行を夢見た母も激怒した。父も母も、家族の結束を引き裂いた日本女性 A子が許せなかった。

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しかしA子をじかに観察した母はその後じょじょにではあるが私寄りになる。

 

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結局、

何度か内戦で父は折れ、最後は私一人だけが残り、家族はインドネシアに発った。

今まで家族と離ればなれしたことがない私は、今度はホームシックにかかり、自分の家に居ながらとても悲しみ、とても後悔した。その私をカノジョは慰め、励んでくれた。ばたばたした高校生活も手伝って、私のホームシックは暫くして治る。

 

 

そして。。。

一人自由自在の日本生活も高校卒業で正念場を迎える。今度と言う今度は、もう日本を離れなければならない。

日本を発つ一か月前から私は放課後バスに乗り、大阪の街を目的もなく一人ぶらぶら彷徨った。目に見える大阪の、日本の全ての光景がやがて記憶となる。。。そう思うと切なかった。

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日本に居る最後の夜、私は朝明けまで友人たちと大阪の街で飲み倒れていた。

朝方、家に着くと電話が鳴り、取るとA子の罵声が響く。

私はハッと気づいた。昨晩、彼女のことをすっかり忘れていたのだ。彼女は一晩中私の電話を待っていたと言う。それを聞いた私は驚愕する。私は彼女の為に両親と反目、家族と離れ、一人日本に残ったと言うのに。。

いったい彼女と日本、はたして私はどっちが好きだったのか?

 

(日本を発つ当日の朝明け。大阪、御堂筋線、東三国駅。

 

伊丹空港に着くと彼女は既にそこで私を待っていた。お互い何を言い合ったか、既に30何年の事なのでもう忘れたが、私も彼女も悲しかった。

「バイバイ.....」

 

かくして、

少年のウルトラマンエースから始まり、中森明菜「セカンドラブ」で卒業した私の日本時代は、何かを強く残し形で、1984311日の飛行機の離陸を以て、終わりを告げた。

中森明菜 セカンドラブ

 

 

時々自分は思う。

日本を離れて30数年後経った今もまだ日本語を忘れないのは、日本に居る誰かに何かを伝えたかったかも知れない、と。。。

 

 

 

(本記事の原タイトル:私のママへの恋は少年時代の自分探し、日本への恩返し

本記事歌謡曲は三愛歯科のBGMもあります)

 

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